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- 橘町(近世~近代)とは
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橘町(近世~近代) 江戸期~現在の町名押小路通御幸町西入柳馬場までの町寛永14年洛中絵図に「たちはな丁」と見え,以後,立花町と記す例もあるが,名称の変化はなく現在に至る「京雀」には,町名由来譚として,昔この町に傾城屋があったが六条三筋町へ移ったつまり,花が立のいたので立花町と名づけた,という説を載せているまた,同書は,当町が古道具屋町になっているという当町には,筆師・墨所青松堂があった(京羽二重)文化3年より14年まで,儒家海保青陵が住し塾を開いており(文化10年版平安人物志),この地で没した祇園会には,北観音山の寄町として5斗の地ノ口米を納めた軒役は53軒役江戸期は上艮組の太郎助廿八町組に属し,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】27番組,同5年第30区と改称,同25年第25学区に編成明治12年上京区橘町,同22年京都市上京区橘町,昭和4年中京【なかぎよう】区橘町となり現在に至る大正7年の戸数73,人口男247・女213 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
橘町(近世~近代) 江戸期~現在の町名堺町通竹屋町上ルの町寛永14年洛中絵図に「立花町」,宝永2年洛中洛外図では「橘丁」と見え,絵図・町鑑などで,「立花」「橘」の字は一定しないが,町名に変化はない江戸期の当町には紅花問屋の近江屋休源(京羽二重織留),外科医の山本恕哲(都すゞめ案内者),笛師の崎山弥平次(宝永版京羽二重)などが居住していたまた,江戸後期の儒学者で,「論語考文」などを著した,猪飼敬所が一時当町に居住したといわれるが(坊目誌),文化10年版の「平安人物志」には,その居宅は「堺町竹屋町南」と記されている江戸期は下一条組の堺町八町組に属し,26軒の軒役を負担明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】22番組,同5年第25区と改称,同25年第20学区に編成明治12年上京区橘町,同22年京都市上京区橘町,昭和4年中京【なかぎよう】区橘町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
橘町(近世~近代) 江戸期~昭和46年の町名昭和22年以降は日本橋を冠称浜町川の東岸で汐見【しおみ】橋・千鳥橋が架かっていた(安政再板切絵図)本願寺が横山町にあったころの門前町で,タチバナを売る家が多く立花町としたが,のち橘町と改めた(案内・府志料)古くは松平越前守の邸地であったが(寛文江戸図),天和年間頃町屋となり1~4丁目を起立(案内)浜町川の河岸を竹河岸といい,薬種店大坂屋平六がいた(遊歴雑記)明治5年の戸数399・人口1,985(府志料)同11年日本橋区に所属常盤【ときわ】橋から浅草橋へ向かう本町【ほんちよう】通り南側に位置し,馬車鉄道も敷かれた(画報)昭和9年の区画整理で隣接する村松町・若松町・横山町2丁目の各一部を合併し丁目を省いた同22年中央区に所属昭和46年現行の東日本橋3丁目・日本橋久松町に編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
橘町(近世~近代) 江戸期~現在の町名松原通油小路西入の町寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図に「たち(立)花町」と現町名でよばれており,また「あおや町」とも称した(京雀)江戸中期には東組・西組の2町に分立していた(宝暦町鑑)当町のやや西寄りで東西に走る松原通と南北に走る醒ケ井通が交差,幕末期には南側に丹波園部藩小出屋敷があった江戸期は川西九町組の中筋組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】13番組,同5年第17区と改称,同25年第17学区に編成明治12年下京区橘町,同22年京都市下京区橘町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)22.0%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
橘町(近世~近代) 江戸期~現在の町名智恵光院通笹屋町下ルの町寛永14年洛中絵図には「たち花丁」と記され,以後の絵図では,表記で「立花」と「橘」が併用されている江戸期は下西陣組の石薬師組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】11番組,同5年第8区と改称,同25年第7学区に編成明治12年上京区橘町,同22年京都市上京区橘町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」